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貧しいことと質素であることは違います。

 

南米はウルグアイ。元大統領のホセ・ムヒカ氏は、
『世界でもっとも貧しい大統領』と称されています。

 

 

彼は一言、こう応えます。
『私は貧しいのではありません。質素なだけなのです。』


そもそも『貧しい』・『豊か』って何?

 

『私は貧しいのではありません。質素なだけなのです。』
こう公言できる背景には壮絶な過去があります。
興味がある人は調べてみて下さい。

 

 

本記事はムヒカ氏の昔話に文字数や行数を稼ぐような、
浅はかな内容にしたくありませんので、
冒頭の事実だけを引用させていただきます。

 

 

私自身、しっかりと貧しさについて触れ、
その価値観を発信したいと考えますので、
今から自分の言葉でそれらを表現しようと思います。

 

 

まず、貧しさについてですが、
私たちはどういう時に『貧しさ』を感じるのでしょうか?

 

・お金が無い?

 

・寂しい?

 

・ムカつく?

 

・もうイヤだ?

 

何となく絶望に向かうような気持ちに近いでしょうか?
何れの感覚も、2種類に分けられます。

 

 

@:相対的貧困 か、
A:絶対的貧困 です。

 

 

つまりは、
@:『最低限生きていけるが、やりたいようにできない。』か、
A:『致死量ギリギリでしか生きられないほど貧しい。』
これらの違いですね。

 

 

仮に、『お金があふれるほどにある。』人が、
どうしても振り向いて欲しい女性に見向きもされなければ、
『やりたいようにできなかった。』
それはつまり、(@:相対的)貧困に類するのですね。

 

 

要するに、
『お金があれば豊かとは限らない。』
そういうことです。

 

 

さて、『そんなキレイごとは沢山ですよ。
俺たち、私たちは本当にお金が全てなんです。』
そう思われる方もいらっしゃるかもしれないので、
少し視点を変えてみます。

 

 

お金が全てと言い切れる人に問うことはただ一つ。
『お金が全てと考える人たちと生きていくつもりですか?』

 

 

もしこの問いにYesと応えることができる人がいたら。
『最低限生きていくだけで良い。』
『目的も大儀も希望もお金に勝らない。』
少なくとも私は、そんな風にも受け取れてしまうんですね。

 

 

これってつまりは、
『やりたいようにできなくても、仕方ない。』
そういうことになります。果たして豊かでしょうか?

 

 

それかもしくは、
『お金が全てだ。何故なら世界の絶対的貧困に苦しむ人たちを
救う手段の一つがお金だからだ。』と言うのでしょうか?
だとすれば、その人は立派だと思いますし、
実は『お金がすべて』と言える人の思考回路ではないと思います。

 

 

さて、『貧しい』と『豊か』。
正反対の様で実は身近でしょうか?
それともお互いが全くの別世界?人間の感性に左右される?
考えることはまだまだ沢山ありそうなテーマです。


『質素』について考えてみる。

 

それでは、冒頭の『貧しいのではなく質素』
これについて考えますのでもう少しお付き合い下さい。

 

 

『貧しい』とは、これまでの物言いを紐解くと
『精神的』や『物理的』な状態であることがわかります。

 

 

生まれ落ちてから老いに向かうまで、
ずっと同じ精神の人間はいませんね。
(一部いつまで経っても変われない子供のような大人はいるようですが。)

 

 

物だって、使い続ければ壊れゆく運命です。
コーティングされてピカピカの車だって、
3年もたてば水垢がついて、小傷も増えています。

 

 

これらに共通して関わっているものは、『時間』ですね。
これは唯一、一国の国王にもプー太郎にも平等に存在
しているものです。

 

 

質素と何が関係あるのかと言いますと、
『心や物の節度は、誰にだってコントロールし得ることで、
それが自由を産むか、不自由を産むかは、考え方次第。』ということです。

 

 

質素とは、物事の節度を知り、
何が自分や大切な人のために最善か、熟知している範囲。
私は勝手ながらそういうふうに解釈しました。

 

 

たとえば、
農家暮らしで軽トラ一台あれば十分な環境で、
維持が難しい外車を数台購入することは
節度にならないのですね。

 

 

他にも、
お金持ちが沢山いる人たちのパーティ三昧で、
肝心な家族との時間を大切にできないのであれば、
家にいる家族も心が貧しくなるでしょう。

 

 

『質素』とは、
自分の意志と行動に大きく左右され、
果ては自由と不自由の分かれ道となる、
大変重要なキーワードですね。

『貧しさ』と『愛』の決定権は他人にはない。

 

さて、あれこれと物言いしました。
最終的な『貧しさ』の基準と決定権は、誰にあるのでしょうか?

 

 

まず『貧しさ』の基準は先述通り2通りあります
『最低限生きていけるが、やりたいようにできない。』か、
『致死量ギリギリでしか生きられないほど貧しい。』

 

 

…が、そのこと自体を決定したい場合は、
共に屋根の下で暮らす家族でもない限り、
『他人が決定を下せる基準ではない。』
そういうことになります。

 

 

他人が『貧しい』と判断できる環境でも、
当事者たちがその環境に幸せを感じていれば、
少なくとも他人が決める『貧しさ』の基準は、
あてにならないことがわかります。

 

 

そして、一見貧しい環境に幸せを感じることが
できているのは、当事者がその環境の中に愛を
感じているからです。

 

 

『貧しい』ことと『質素』であることは、全く別物なのですね。

 

 

そして、『貧しい』という判断基準も、
『愛』という偉大な慈しみのもと、
とてもいい加減であいまいなものになります。

 

 

 

追記

 

 

 

貧しさや質素の話をするつもりが、
いつのまにか『愛』とか『慈しみ』という言葉まで
出てきてしまい、若干こっぱずかしい内容になってしまいました(^-^;

 

 

ただ、『愛』になかなか気付くことができない人は、
貧しさの判断基準がゆるくなっているので、
少し危険かなと個人的には思います。

 

 

結局、人が何としてでも生き延びようとする
最後の切り札は『愛情』なのです。

 

 

それはつまり、
『私たちは独りでは生きていけない。』
ということでもあります。

 

 

大切な人や友人と幸せに日々を暮らしたい。
昔憎しみ合った人を許したい。

 

↑↑↑
平和主義的かもしれませんが、
一番生産的な思考回路って、『愛』なんですね。

 

 

昔自分を傷つけた人間に仕返しする時間ほど、
ヒマで生産性のない思考と行動はありません。
『愛』を知っていれば、まずそこに気付けます。

 

 

そして、
本気で自由と幸せに向かって行動していれば、
そんなことはもう、どうでも良くなるんです。

 

 

貧しい人って、
『自分の方が幸せだ!どうだ!』とか
『何が何でも自分の思い通りにしてやる!』とか
『まだ足りねえ、まだまだもっとだ!』とか
『僕・私をバカにした連中を、絶対後悔させてやる!』とか…

 

 

今あるもので十分幸せで豊かなハズなのに、
食えども食えども満足できない人のことなんですね。
そこに『憎しみ』の感情があれば尚貧しいです。

 

 

私たちは決してそんな貧しさや憎しみに
人生を支配されてはいけないし、
心構え次第では、身の回りにあるものを質素に抑え、
自由で幸せな人生を歩めると思います。

 

 

 

 

 

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