芦田愛菜ちゃんに物申す!
2020年9月8日
ちょっと今テレビを観てたら、
「芦田愛菜ちゃんも16歳!」と言っていました。
ついこないだまで7歳だったのにマジか…
と、率直にそう思わされました。
気になったのでそのまま観ていると、
この子は小さい頃から読書が大好きだったのだとか。
ふーん。それっぽい。
…で、そういう事実を捕まえては
心理系、哲学系の有識者さんたちが分析するわけですよ。
「読書をすることはイイ。」
「筋の通った言葉を使えるようになる。」
そんな感じでね。
オチは何かって言うと、
「芦田愛菜ちゃんは哲学志向が高い。」
本稿は、これに関して物申す記事です。
「信じること」 芦田愛菜論。
たしかに読書好きな彼女は筋の通った言葉を選べるかもしれません。
そして、芦田愛菜ちゃんは「人を信じる」ということについて独特の解釈を示します。
「人を信じる」ってどういうことなのか考えました。
「その人自身を信じているのではなく、自分が理想としている人物像に期待してしまっている。」
「裏切られたとか期待していたとか言うけれど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。」
「その見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められる、揺るぎない自分がいることが信じられることと思いました。」
これ見て聞いて、
心が痛むオッサン・オバサンいるんじゃないでしょうか。
え?理解ができないって?(論外)
この言及については、
「なるほど、立派だなぁ。」と素直に感じますし、
私自身のマインドセットにも今後役立つと思いました。
ただ一方で。
この子、16歳の女の子ですよ。
「つまんねぇなぁ。」とも思わされ、
何だか可哀想にも思えてくるのです。
大きなお世話だとしてもね。
それで人生楽しいか?
私の16歳の頃なんて、
学校がつまんなくて、同調圧力に苦しんで、
「人生クソだ」とか周りに言い放って、
おバカ丸出しだったと思うんですよね(今も時々そうです。)。
でも、そうじゃないと人生楽しくない。
まちがっても16歳で「人を信じる」ことについて、
独自に哲学的結論で着地させることなんてしません。
この芦田愛菜ちゃんの「人を信じる論」について、
感じることは二つ。
@「芦田愛菜ちゃんも大人になったねぇ。」を創りあげたいマスコミ。
A芦田愛菜ちゃんの同世代にも与える影響。
@は マスコミの都合で、
Aは 「カンチガイ」の大量生産です。
そして、私自身こういう若者が「えらいねぇ」と関心されることや、
崇拝されて量産型が増えることについては、
もう心配しかありません。
二十歳にもなっていないときから「人に期待しない」とか、
「揺るがず人を受け入れる」とか洗脳されて実践していたら、
その人たち「ターミネーター」になっちゃいますよ。
感情がない。
人間らしさがない。
「期待する」から、「裏切られる」から…。
人間を被った人に期待しない、
自分が決して揺るがないターミネーター集団の世界。
私はそんな世界なら「つまらない」と考えてしまうのです。
人は「人に期待する」から希望を持つことができます。
人は「人に裏切られる」から傷付いたり学ぶことができます。
それが人間じゃないんですか?
「その見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められる、揺るぎない自分がいることが信じられることと思いました。」
たしかに人からすれば裏切ったわけではなく、
見えなかった部分が見えたという理屈は、正しいと思います。
ただ、この理屈は、
「『傷付くことができない、ただの処世術』なんじゃないか?」
そう思ってしまいました。
そりゃあ進んで傷付くことなんて、
私だってイヤですよ。
ただ、芦田愛菜ちゃんの理屈を越えて、
自分を無条件に傷つけてくる連中に、
「ああ、この人こういう人か。」…って
能天気にただ受け入れますか?
明らかに「理不尽だ」「自分には迷惑でしかない」
そう判断できるとき、飄々(ひょうひょう)と
「ま この人こういう人だし…」なんて、
悟りまがいの思考で、ほったらかしにしますか?
戦えよ、自分壊せよって思いますけどね。
闘争心とか反骨精神って、
こういう報道から失われていくのかなって思いました。
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