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イエスマンしか周りに置かない裸の王様。

 

イエスマンしか周りに置かない裸の王様。

 

経営者に限らずあらゆるビジネスマンに言える事ですが、
周りにイエスマンばかり置きたがる人は少し危険です。

 

 

そして、イエスマンしか置けない理由もあるんですね。
論点がおさえられないまま、その人の周りにはお気に入りの
人間だけが残っていきます。


無難な収束しかできない出来の悪い学級委員長。

 

私たちは学生の頃から、
学級委員会と称して、議論を交わす機会を持ち、
色んな決まり事をまとめてきたと思います。

 

 

これは大人になっても同じで、
会議というイベントのもと発言したり、
発言された意見やアイデアをまとめていくようになります。

 

 

その中で、議長になる人はいると思います。
その議長の出来が悪ければ、ムダな時間だけが費やされていきますね。
いつまで経っても意見がまとまらないからです。

 

 

もちろん、やっている側への労いは大切ですから、
会議に参加した全ての人がリーダーシップをもって、
協力的に進行させていくべきですが。

 

 

それはそれとして、やはり収束力がある、
頼りがいのある人間がリーダーであって欲しいものです。

 

 

名は伏せますが、
一昔前はラジオでギラギラと意見を戦わせた有名人が、
今はテレビで無難なコメントしかできなくなった例があります。

 

 

その人はラジオで、核戦争のようなシビアな話題でも、
お構いなしに熱く意見を吠えていました。

 

 

きっと当時、賛否はあったことでしょうが、
その人のまっすぐな言葉に私も感動していました。

 

 

ところが現在になれば、テレビで意見を求められると、
無難でひょうひょうとしたことだけを話し、
まるで論点の核を煙に巻くような態度になってしまいました。

 

 

これって言い方は悪いんですけど、
ただの出来の悪い学級委員長と一緒なんですよね。
(もちろんラジオとテレビの違いだから、コメントも考えないと
いけないことは理解できますが。)

 

 

それでもテレビで拝見する限り、
周りをイエスマンばかりで固めており、『なあなあ』です。
ノーマンを置けないのは、論破されしまう
自信の無さの表れかと思ってしまうほどです。

イエスマンしか置けない人は、あっさり論破されてしまう。

 

ある映画監督は『僕はイエスマンだけを傍に置きたくない。』
こう言います。理由は一つ。『独りよがりになって裸の王様になりたくないから。』

 

 

監督である自分に反論する人と意見を戦わせてこそ、
冷静かつ客観的に自分を見つけ直すことができるし、
映画の全体像を俯瞰して見つめることができるんですね。

 

 

現状維持を嫌う、生粋のクリエイターだと思います。

 

 

クリエイターに限らず、
組織でいようが個人でいようが、
周りにイエスマンばかり置いている人たちは皆、
現状維持止まりなんですね。

 

 

イエスマンばかり置いてしまう理由は、
自分も昔から反論するようなことはせず、
無難で当たり障りない生き方をしてきたからです。

 

 

そんな人に一度反論してみます。
すると、ビックリするくらい論破できてしまうんですよ。

 

 

私も実経験を話しますが、
『組織でリーダーをやるなら、カンタンに論破されないで下さいよ…』
こんな気持ちになってしまいます。

 

 

言葉を選べないような酷い人になれば、
『ごちゃごちゃ言わず、言われたことをやれ!』
まぁ、これも正論ではあるんですけどね。
意見を戦わせた実感も無く、ちょっと拍子抜けです。


反論耐性が無い人が裸の王様になる。

 

反論されると、逆ギレする人っていますよね。
しかも『やることはやれ』と。
当たり前すぎる正論だけをガーっと吐き出せる人たちです。

 

 

経営者やリーダーになる人たちに与えられる権利は、
正論も矛盾を押し通せることです。

 

 

その権利をもってしまった人たちが、
カンタンに論破されたりカンタンな正論しか使えないと、
本当に出来が悪い結果を生んでしまうんですね。

 

 

そのまま裸の王様になっていることに気付けずに、
こう言います。『ありがとう、みんなのお陰だよ。』
もう苦笑いです…。

 

 

反論耐性とは、
冷静に意見を受け入れることができ、
熱い結論に導くことができる能力のことです。

 

 

言うは易し…ですけどね(^-^;
反論耐性の能力があるリーダーでも、
それに賛成できない人は必ずいますから。

 

 

それでもお情けで100%の賛同を得られるよりは、
納得いくまで意見を戦わせた50%の賛同の方が、
少なくとも意味があるのでは…?そう信じたいです。

裸の王様の末路

 

皮肉なことに、裸の王様の末路って救いがあるんですね。
それはイエスマンが犠牲になっていくからです。

 

 

犠牲と言えば表現は悪いのですが、
一番相応しい言葉だと思ったので使いました。

 

 

イエスマンは、その言葉通り『イエス』としか言えません。
本人の意志に関係なく、権力者の意志に従うしかないから、
本心は『ノー』でも『イエス』と言うしかありません。
それがイエスマンの処世術なのですから。

 

 

結局裸の王様は、裸の王様でしかないんですね。
中身があるなし関係なく…。

 

 

その陰には、一体何人の犠牲者イエスマンが
いたのでしょうか?そんな背景を想像すれば、
正直残念な気持ちになってしまいます。

 

 

 

追記

犠牲者イエスマンをこれ以上生まない為に。

 

 

自意識過剰か被害者妄想と言われても良いですが、
私自身はイエスマン・ノーマンの立場でも、
『いずれはこの環境にはいられない』
そう考えざるを得なくなる社会人でした。

 

 

間違っても『犠牲になった』などとは考えませんが、
どちらかと言えば『ノー』を発言して会社という環境から
退いたと自負しています。

 

 

そう考えると、権力者に『イエス』と答えて
人生を泳ぐイエスマンとして犠牲になることは
無かったと言えます。

 

 

それでもイエスマンとして生き、
会社に心血捧げた人が犠牲になるケースは少なくないでしょう。

 

 

正直、理不尽にイエスマンが犠牲になることほど、
危険なことは無いと思っています。

 

 

なぜなら、イエスマンは自ら議論を戦わせることを
放棄したので、尻尾をふるための権力者に見捨てられると、
処世術そのものをバッサリ切られてしまうからです。

 

 

↑↑↑ちょっとややこしい表現でした(^-^;

 

 

これは私個人の『願い』のような意見なのですが、
悲惨な犠牲者イエスマンを生まない為には、
『ノー』と言う人間になるか、『ノー』と言う勇気が無ければ、
自分が経営者になるしかないんですね。

 

 

生き方の表現方法は、沢山あります。
イエスもノーも、その人の価値観です。
議論を戦わせることに生きがいを感じる人もいれば、
それらに一切関わらず、自分だけで自由に生きていく人もいます。

 

 

 

 

 

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